はじめに:2025年ワールドシリーズ第5戦の衝撃
2025年のワールドシリーズ第5戦。ロサンゼルス・ドジャースのエースとして登板した山本由伸投手の姿を、私は息をのんで見つめていました。
大谷翔平選手の活躍に注目が集まる中、山本由伸投手もまた、世界最高峰の舞台で日本人投手の底力を見せつけてくれました。特に印象的だったのは、肩の故障から復帰した直後にも関わらず、まったく衰えを感じさせない力強いピッチングでした。
テレビ画面を通してでも伝わってくる、あのしなやかな投球フォーム。150キロを超えるストレートと、打者の手元で鋭く変化するフォークやカットボール。それらはすべて、日本球界の「常識」を覆す独自のトレーニング哲学から生まれていたのです。
ワールドシリーズを見終わった私は、すぐにKindleで購入していた『山本由伸 常識を変える投球術』を読み返しました。そこには、山本選手がどのようにして「規格外」の投手になったのか、その秘密が詳細に記されていました。
ドラフト4位から世界の頂点へ
山本由伸選手を語る上で、忘れてはならない事実があります。
彼は2016年、オリックス・バファローズにドラフト4位で指名されました。
そして、もう一人。日本が誇る世界的スーパースター、イチロー選手もまた、1991年、オリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で指名されています。
同じオリックス、同じドラフト4位という運命。そして二人とも、「常識破り」のトレーニング哲学で世界の頂点に立ちました。
今回、中島大輔さんの著書『山本由伸 常識を変える投球術』(新潮新書、2023年)と、イチロー選手らが語る『希望のトレーニング 彼らは初動負荷トレーニングで何を見つけたのか』(講談社、2014年)を読み直し、二人の驚くべきトレーニング哲学の共通点を発見しました。
本記事では、これらの本からの豊富な引用を中心に、山本選手がなぜ「肘を曲げない、筋トレはしない、スライダーは自ら封印」という「規格外」の道を選んだのか、そしてイチロー選手との共通点は何なのか、その真相に迫ります。
山本由伸という「規格外」の投手
まず、山本由伸選手の経歴を簡単に振り返りましょう。
「2016年秋のドラフト会議では「高校ビッグ4」と注目を集めたピッチャーたちがいた。甲子園優勝投手の今井と、履正社高校の左腕・寺島成輝、横浜高校で1年秋からエースを張った本格派右腕・藤平尚真、そして花咲徳栄高校で台頭した左腕の高橋昂也だ。前評判どおりに今井は西武、寺島は東京ヤクルトスワローズ、藤平は東北楽天ゴールデンイーグルスにそれぞれ1位指名を受ける。高橋は広島に2巡目の最後に名前を呼ばれた。それから13人後、オリックスに4位で指名されたのが都城高校の山本だった」
ドラフト4位という序列から、わずか5年で投手四冠、沢村賞を獲得。この驚異的な成長の秘密は何だったのか。本書はその謎を解き明かしてくれます。
「高校ビッグ4」と呼ばれた投手たちは、その後プロで期待通りの活躍ができませんでした。一方、ドラフト13人後の山本由伸選手は、彼らを遥かに凌ぐ実績を残しました。この逆転劇を可能にしたのは、決して偶然ではありません。そこには、明確な理由がありました。
運命の出会い:プロ1年目の「フルモデルチェンジ」
山本選手のキャリアを大きく変えたのは、プロ入り1年目のオフシーズンでした。当時の山本選手は、高いポテンシャルを秘めながらも、深刻な問題を抱えていました。それは、投げるたびに右肘がパンパンに張るという、投手生命を脅かす状態でした。
高卒1年目から150キロ台のストレートを投げる才能はありました。しかし、このままでは長くは持たない。山本選手自身が「今の投球フォームでは、いつか限界が来る」と感じていたといいます。そんな時、人生を変える出会いが訪れたのです。
「入団1年目のオフ、筒香嘉智(現テキサス・レンジャーズ傘下)と、彼が長らく師事するトレーナーの下で自主トレを行ったことだった。『そのときに、すべてと言っていいくらい変わりましたね』」
そのトレーナーこそが、矢田修氏でした。
矢田修トレーナーとの出会い
山本選手の故郷は岡山県備前市。人口わずか3万人余りのこの小さな町から、山本由伸選手、頓宮裕真選手、福島章太選手という3人ものプロ野球選手が誕生しています。この町の人々のつながりが、山本選手の運命を変えることになります。
「岡山県の備前市は、日本六古窯の一つである備前焼の産地として知られている。瀬戸内海に面し、伝統的に漁業が盛んな地域だ。人口3万3000人ほどの小さなこの街から近年、プロ野球選手が3人誕生している」
地元のスポーツ店を営む鈴木一平さん、そしてプロスペクト社の瀬野竜之介さん。この二人が、山本選手と矢田修トレーナーを引き合わせました。筒香嘉智選手が長年師事するトレーナーとして知られていた矢田氏。大阪市鶴橋にある小さな接骨院で、18歳の山本選手は人生を変える言葉を聞くことになります。
初対面での矢田氏の言葉は衝撃的でした。普通なら反発してもおかしくない厳しい指摘です。
「『寝る間を惜しんでトレーニングをしたとしても、今の投げ方の延長線ではあなたの思い描く理想には行かれへんよ。そこに行くためにはフルモデルチェンジが必要ですよ』」
高校を卒業したばかりで、プロの世界に飛び込んだばかりの18歳。己のやり方でここまで来た自負もあったでしょう。しかし、山本選手の反応は意外なものでした。
この厳しい指摘を、山本選手は素直に受け入れたのです。長年悩まされてきた右肘の痛みの原因が分からず、病院や整骨院を訪ね歩いても納得できる答えが得られなかった山本選手にとって、矢田氏の言葉は「もともとの原因から直す」という本質的なアプローチに思えたのでしょう。
「『最初は少し話しただけだったですけど、すごく解決してくれそうだなと何となくピンと来て。もともとの原因から直していかないと、改善されないということでした』」
この「直感」が、山本選手の運命を変えました。プロ1年目の4月から、山本選手は矢田接骨院に通い始めます。そして、オフシーズンには毎日通い詰め、筒香嘉智選手とともに自主トレに励むことになるのです。
BCエクササイズ:常識を覆すトレーニング哲学
山本選手の成功の根幹をなすのが「BCエクササイズ」です。これは矢田修トレーナーが考案した独自のトレーニング方法で、ウエイトトレーニングとは全く異なるアプローチです。
現代のスポーツ界では、ウエイトトレーニングで筋肉を大きくし、出力を高めることが常識となっています。しかし、矢田氏が提唱するBCエクササイズは、その真逆の発想から生まれました。筋肉の「量」ではなく「質」。外側の筋肉ではなく、身体の深層にあるインナーマッスル。そして何より、自分の身体を深く理解し、コントロールする「身体知」の獲得を重視するのです。
「いちげんさんお断り」の真意
矢田接骨院のホームページを開くと、最も目立つ場所に「いちげんさんお断り」という文字が掲げられています。接骨院やトレーニング施設が、あえて顧客を拒絶するような言葉を掲げるのは異例です。しかし、そこには深い意味がありました。
矢田氏のトレーニング哲学は、一般的な「わかりやすい」指導とは正反対です。すぐに結果が出る魔法のような方法ではありません。地道に、何年もかけて、自分の身体と対話しながら獲得していく「身体知」。それは、中途半端な気持ちでは到達できない境地なのです。
「『レベルどうこうではなく、物事を真剣に捉えてほしいという気持ちですね。僕、単純に世の中、運と縁だと思うんですよ。運に選んでもらうような生き方をするのも自分なら、縁を呼び込んでくるようなのもその人の生き方じゃないですか。世の中は運と縁なので、運と縁のつながりでお越しいただきたいですという気持ちなんです』」
実際、多くのプロ野球選手が矢田氏の門をたたきます。しかし、ほとんどの選手は数日で諦めてしまうといいます。それほど、BCエクササイズは地道で、忍耐力を要求されるトレーニングなのです。山本由伸選手と筒香嘉智選手が特別なのは、この困難な道を何年も歩み続けた点にあります。
「正しく立つ」ことから始まる
BCエクササイズの原点は、驚くほどシンプルです。それは「正しく立つ」こと。私たちが生まれて1歳頃に習得する、あの「立つ」という動作です。
しかし、矢田氏は衝撃的なことを言います。
「『プロ野球選手でも、正しく立てている選手はほぼいません』」
プロのアスリートでさえ、「正しく立つ」ことができていない。この言葉は、私たちが当たり前だと思っている身体の使い方が、実は間違っているかもしれないことを示唆しています。
筒香嘉智選手は、朝起きて布団から出ると、まず30秒から1分間、その場に立って自分の重心の位置を確認するといいます。それほど、「正しく立つ」ことは難しく、そして重要なのです。
矢田氏が送ってきた解説には、こう書かれています。
「正しく立てない者は、正しく歩くことはできない
正しく歩くことができない者は、正しく走ることはできない
正しく走ることができない者は、正しく投げることはできない
正しく立つには、正しい呼吸と集中が大切」
すべての動作の起点は「正しく立つ」こと。この単純な事実が、BCエクササイズの根幹をなしています。
山本選手も最初は、自分が「正しく立てていない」ことに気づかされました。プロの投手として活躍していた自分でさえ、基本中の基本ができていなかったという事実。それは大きな衝撃だったでしょう。
「『自分では真っすぐ立てているつもりでいたんですけど、まったくそれはちゃんと立てているとは言えなくて。「これ、真っすぐ立てていないんだ」っていうところから始まりました』」
そこから山本選手は、毎日、何時間も、「正しく立つ」練習を続けました。プロ6年目になっても、まだ「完全ではない」と語る山本選手。それは、真の「身体知」を獲得することが、いかに深く、終わりのない探求であるかを物語っています。
BCエクササイズの「5つのB」
BCエクササイズの根幹を成すのが「5B」と言われるものです。
「ブレス (Breath)、バー (Bar)、ボウル (Bowl)、ボード (Board)、ブリッジ (Bridge) の頭文字から来ている」
これらは単なる筋力強化ではなく、自分の身体を深く理解し、重心をコントロールし、「力の質」を高めるためのものです。5つのBとその派生を含めると、BCエクササイズは300種類以上にも及ぶといいます。しかし、その根底に流れる哲学は一貫しています。それは「自分の身体の重心を感じながら、ズレを確認して整えていく」ということです。
ブレス(Breath):すべての起点となる呼吸
最初の「B」は呼吸です。私たちは普段、呼吸を意識することはありません。しかし、矢田氏は呼吸こそがすべての起点だと言います。
専用の細いチューブ「B-TUBE」を使って、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。これを座位、立位、そして動きながら行います。単純に見えますが、その効果は絶大です。
「呼吸というのは体性神経支配ではなく、自律神経支配ですよね。自律神経が整っていなかったら呼吸もおかしくなるし、呼吸が正しくなければ自律神経もおかしくなる」
呼吸を整えることで、自律神経が整う。自律神経が整うことで、身体全体が協調して動くようになる。これが、ウエイトトレーニングでは決して得られない効果なのです。
バー(Bar):身体のズレを見つける
木製の細い棒を使って、肩や胸郭、腰を動かしていきます。一見すると地味な体操ですが、その真の目的は「自分の身体のズレを確認する」ことです。
「体調や気温によっても、自分のコンディションや感覚がずれていることがあります。どこが邪魔をしているのか、ずれているのか、これをやると確認できるんですね」
山本選手は、試合中にベンチに戻ると、このバーの動きを思い出しながら姿勢を修正していたといいます。投球に乱れが出た時、「帰ってくる場所」があることの重要性。それがBCエクササイズの大きな強みです。
ボウル(Bowl):重心をコントロールする
「ケアディスク」という半球状の器具の上で、開脚や胡坐の姿勢をとります。不安定な器具の上でバランスを取ることで、自分の重心を感じ取る訓練です。
「『ボウル』は自分の重心を真ん中に集めるためのエクササイズの一つです。開脚で乗ったり、胡座で乗ったり、いろんな乗り方があります。乗り方によっても身体の重心の場所が変わってきますので、どんな乗り方でも自分の重心のズレを確認するという意味でこの器具を使ってやっています」
新体操で身体が柔らかい選手でも、このケアディスクにはうまく乗れないことがあるといいます。柔軟性と重心のコントロールは別物。投球時の体重移動やバランス感覚を高めるために、この訓練が不可欠なのです。
ボード(Board):わずか3.6センチの奥深さ
木製のボード、その厚さはわずか3.6センチ。この微妙な高さに、深い意味があります。
「なぜ3・6センチかと言いますと、大体3センチくらいまでは、人間の身体は無意識に(重心を)調整するんですよ。あとギリギリ6ミリ増えるだけで、『あれ? こっちのほうが高いぞ、低いぞ』って身体が気づくんですね」
わずか6ミリの違いを身体が感知する。この繊細な感覚が、投球時の微妙な体重移動やバランスの取り方につながっていきます。山本選手が打者の手元でわずかに変化するカットボールを自在に操れるのも、こうした繊細な身体感覚があるからでしょう。
ブリッジ(Bridge):「柔らかさ」ではなく「強さ」を鍛える
山本選手のブリッジの動画は、野球ファンの間で大きな話題を集めました。四肢を地面につけた状態から身体を反らし、右手、左手、左足、右足を順番に上げていく。その柔軟性に誰もが驚きます。
しかし、その真の意味を理解している人は少ないでしょう。多くの人は「身体が柔らかい」と感じます。しかし、山本選手は明確に否定します。
「『1年目のオフシーズンに自主トレを一緒にやらせてもらって、自分で言うのもあれですけど、結構頑張って。実はあの練習も、柔らかさを求めたわけではないんですよ。まあ、この先は秘密かな(笑)』」
山本選手は続けます。
「『柔らかさに見えて、強さと言うか。例えばブリッジの練習も、あの映像を見た人は「体が柔らかいね」ってみんな、絶対言うんですよね。でも本当に鍛えているのは柔らかさじゃなくて、強さを鍛えているんです』」
これは、私たちの「常識」を覆す言葉です。ブリッジ=柔軟性の訓練、と誰もが思います。しかし、山本選手が求めているのは「柔らかさ」ではなく「強さ」。それは、力を抜いた中で、身体全体を協調させて生み出す「力」なのです。
矢田氏はこう説明します。
「『これが一番、力ではない力というのがわかりやすいと思います』『ウエイトをガンガンやっている人は全然できないですよ』」
「力ではない、力」。この謎かけのような表現が、BCエクササイズの本質を物語っています。筋肉を固めて生み出す力ではない。身体全体を一つにつなげて、しなやかに、しかし強く動かす。そこから生まれる「力の質」こそが、山本選手の球威の源泉なのです。
なぜウエイトトレーニングをしないのか
山本選手がウエイトトレーニングを一切しないことは、球界では広く知られています。チームメイトがバーベルを挙げている横で、山本選手はブリッジやバーのエクササイズを淡々と続ける。その姿は、時に「サボっている」とさえ言われました。
しかし、その理由を深く理解している人は少ないでしょう。山本選手は単に筋トレが嫌いなわけではありません。明確な「根拠」を持って、ウエイトトレーニングをしないという選択をしているのです。
ウエイトへの懐疑
山本選手は高校時代から、ウエイトトレーニングに疑問を持っていました。周囲の選手たちは皆、ウエイトトレーニングで身体を大きくし、筋力を高めようとしていました。しかし、山本選手は自分の経験から、違和感を抱いていたのです。
「『僕のほうがすごく細くて小さいのに、周囲より速い球を投げられることが結構あったから「本当にウエイトが必要なのかな?」って何となく疑っている部分もありました』」
この素朴な疑問が、後の「常識破り」の道につながっていきます。身体が小さくても速い球が投げられる。ならば、大切なのは筋肉の量ではなく、身体の使い方ではないか。18歳の山本選手は、すでにこの本質に気づいていたのです。
「力の質」が変わる
BCエクササイズの効果を最も象徴的に示すエピソードがあります。それは、山本選手と高城俊人捕手との腕相撲です。
高城選手は身長176センチ、体重88キロ。山本選手より体重で8キロも重く、捕手というポジション柄、パワーに優れています。普通に腕相撲をすれば、高城選手が勝つでしょう。
しかし、矢田氏の「補助」が入ると、結果は逆転しました。
矢田氏は、BCエクササイズとウエイトトレーニングの根本的な違いをこう説明します。
「『腕相撲の話に戻りますけど、〝力の質"が変わるんですね。そうとしか言いようがない。簡単な表現をしたら、5キロの重さがありますよね。地球上のどこへ持っていっても、5キロは5キロじゃないですか。でも、自分の気持ちや身体の状態など、そのときのあり方で〝重み"が変わりますよね』」
同じ5キロでも、「力の質」が変わる。これは物理的にはあり得ない話に聞こえます。しかし、山本選手は実際に体験しました。
「『普通に腕相撲をしたら、高城さんのほうが僕よりめちゃめちゃ強いと思います。でも矢田先生の補助があると、高城さんの重心が浮いて飛ぶような感じになり、僕が勝つんです。それを最初に感じられたとき、「これでボールを投げたらどうなるんだろう」って思いました』」
この体験が、山本選手を「夢中」にさせました。腕力が上がったわけではない。筋肉が大きくなったわけでもない。しかし、身体の使い方が変わることで、「力の質」が変わる。この不思議な体験が、山本選手にBCエクササイズの可能性を確信させたのです。
「これでボールを投げたらどうなるんだろう」。この期待が、プロ2年目以降の山本選手の投球フォーム革命につながっていきます。
体性神経と自律神経
矢田氏の解説は、さらに深い理論に基づいています。それは、体性神経と自律神経という、人間の身体を支配する二つの神経系統の違いです。
体性神経は、私たちが意識的にコントロールできる神経です。「腕を上げる」「足を踏み出す」といった随意運動を司ります。ウエイトトレーニングは、この体性神経を使って筋肉を鍛えます。
一方、自律神経は、心臓の鼓動や内臓の働きなど、意識的にはコントロールできない機能を司ります。そして、矢田氏の主張は、「身体を本当に協調させて動かすのは、自律神経である」というものです。
「『体性神経優位で使うことによって、身体はウエイトをしたらまんべんなく鍛えられますよね。でも、まんべんなく鍛えた身体がバランスよく、合理的に動くかと言うと、そうではない。それをやるのは自律神経なんです。じゃあ体性神経ばかり優位の状態で身体を鍛えて、いきなり自律神経のコントロール能力を使えと言われたって、「いや、今まで使ったことがないのにどうやって使うの?」ってなりますよね』」
これは、スポーツ科学の常識を覆す主張です。しかし、山本選手の投球を見れば、その正しさは明らかです。身体全体が協調し、無駄のない動きで、最大限の力を生み出す。それは、意識的にコントロールしようとして得られるものではなく、自律神経が身体を統合することで初めて可能になるのです。
筋肉は増えている
さらに興味深いことに、山本選手はウエイトトレーニングをしていないにも関わらず、筋肉量は増え続けています。これは、周囲の人々を驚かせました。ウエイトをしないのに、なぜ筋肉が増えるのか。
「『身体がどんどん大きくなっていて、形も変わっています。筋肉もなぜか増えているし』」
チームメイトからは「サボっている」と見えたかもしれません。しかし、オリックスの定期的な身体測定では、山本選手の筋肉量が毎年確実に増加していることが証明されていました。スーツのサイズも年々大きくなっているといいます。
矢田氏はその理由をこう説明します。
「『身体を動かすのは筋肉です。でも筋肉の使い方や、使う筋肉がみんなと全然違います』『ウエイトとは筋肉がつく場所が違うんですね。外見上は何も変わっていないから、みんなから見ると「こいつ、やっぱりウエイトやってへんから」とか「サボっているから」となるじゃないですか。でもプロ野球では毎年いろんな計測が行われて、山本君は筋肉量が毎年アップしているんです』」
つまり、BCエクササイズで鍛えているのは「見える筋肉」ではなく「見えない筋肉」。身体の深層にあるインナーマッスルが発達しているのです。外見上は変わらないように見えても、内側では確実に強くなっている。これが、山本選手が投手として成長し続けている秘密です。
やり投げトレーニングの真意
山本選手のトレーニングで注目されるのが、やり投げの要素を取り入れたことです。YouTubeやSNSで拡散された映像を見て、多くの野球少年が真似を始めました。しかし、表面だけを真似した結果、肘を痛める選手が続出したといいます。
なぜか。それは、やり投げトレーニングの「真意」を理解していないからです。
ジャベリックスローとフレーチャ
矢田氏が野球選手のトレーニングにやり投げを取り入れたのは、約10年ほど前のことです。もともと陸上選手だった矢田氏は、やり投げの動作が投球動作と本質的に似ていることに着目しました。
「やり投げの導入として開発された競技で、ターボジャブという重さ300グラム、長さ70センチの器具を使用する投てき種目だ。ジュニアオリンピックでは正式種目として実施されている。もともと陸上選手だった矢田は、10年ほど前から野球選手のトレーニングに取り入れるようになった」
しかし、ジャベリックスローには課題がありました。慣れると力任せに投げても飛んでいく。野球のボールを投げる感覚とは少し異なる。そこで開発されたのが「フレーチャ」です。
「重さ400グラム、長さ15センチのこの器具はスペイン語で「矢」という意味を持つ。矢田が開発に力を貸したのはジャベリックスローの限界を感じると同時に、自分が口で説明するよりもフレーチャを投げたほうが、投球動作につなげる上での狙いをうまく伝えられるのではと考えたからだった。足から手先を一本の釣竿のように使い、一番大きな身体の使い方〟をできるようにという意図が込められた」
「足から手先を一本の釣竿のように使う」。この表現が、やり投げトレーニングの本質を物語っています。腕の力だけで投げるのではない。足から、腰、体幹、肩、腕、そして指先まで、身体全体を一つにつなげて投げる。その感覚を身につけるために、やり投げがあるのです。
身体全体を使う
しかし、山本選手は明確に言います。やり投げをすれば投球が良くなるわけではない、と。
「『やりを乗せるためには何が必要かとか、そういった感覚の練習はありますね。ただやりを投げても多少は良くなると思いますけど、やり投げだけをしてピッチングが良くなることでもないですし。正しくやらないと、効果も最大限には出ないと思います』」
ここに、多くの野球少年が陥る落とし穴があります。山本選手の動画を見て、やり投げの器具を買って投げてみる。しかし、効果が出ない。それどころか、肘を痛める。なぜか。
それは、BCエクササイズという「土台」がないからです。午前中に3時間かけて、ブレス、バー、ボウル、ボード、ブリッジで身体を整える。その上で、午後にやり投げをする。この順序が重要なのです。
「『発想としてこれは野球にいいだろう"ということではなく、自然の原理に基づいた投球を伝えるには僕が説明するより、ジャベリックスローで探してもらったほうが見つけやすいと思いました』」
「自然の原理」。人間の身体は、本来どのように動くべきなのか。その答えを、言葉ではなく、身体で感じ取る。それが、やり投げトレーニングの真の目的なのです。
「一本の青竹」のようにしならせる
山本選手の投球フォームの独自性は、BCエクササイズとやり投げトレーニングの成果です。
肘を曲げずに、腕を大きく後ろに引いてから投げる。この独特なフォームを、野球界の常識を知る人々は「アーム投げ」と批判しました。肩や肘に負担がかかり、故障のリスクが高いと。
しかし、矢田氏の解説は違いました。山本選手の投球は、決して身体に負担をかける非効率なものではない。むしろ、人間の身体の仕組みに最も適した、合理的な動きなのだと。
矢田氏の解説案には、こう書かれています。
「投球の場合、ボールが力を受けて手から離れていこうとする際の力の伝わり方は、体幹の深層を中心にして、接地した前足からボールまでが、一本の青竹を強い力でしならせた状態で蓄えられたエネルギーが一気に解き放たれるように、大きな力がボールに伝わることが望ましい」
「一本の青竹」。この比喩が、すべてを物語っています。青竹を手に持ち、しならせる。竹全体がしなることで、先端には大きな力が伝わります。途中で折れたり、曲がったりしてはいけない。全体が一つになって、しなやかに、しかし強く動く。
山本選手の投球は、まさにこれです。足から指先まで、身体全体が一本の青竹のようにしなることで、159キロのストレート、151キロのフォークという「常識外れ」のボールが生まれるのです。
これこそが、山本選手が目指している投球の本質です。
困難を乗り越えて:プロ2年目の春季キャンプ
山本選手の道のりは、決して平坦ではありませんでした。むしろ、その道は茨の道だったと言えるでしょう。
プロ1年目のオフに、矢田氏の下で自主トレを行い、投球フォームを大きく変えた山本選手。筒香嘉智選手とともに、来る日も来る日もBCエクササイズに打ち込み、「すべてが変わった」と感じるほどの成長を遂げました。
しかし、その成果を見せる舞台となるはずだったプロ2年目の春季キャンプは、山本選手にとって地獄のような時間でした。
「四面楚歌」の春季キャンプ
2018年2月、宮崎で行われた春季キャンプ。新しいフォームで投げ始めた山本選手を待っていたのは、周囲からの総攻撃でした。
「『この中に僕の味方は一人もいません』2018年2月にオリックスの春季キャンプが始まって数日経った頃、当時、山本が契約していた運動用具メーカー「オンヨネ」の代理店プロスペクトで働く阪長友仁が宮崎市清武総合運動公園を訪れると、そう打ち明けられた」
高卒2年目の若手投手が、「この中に僕の味方は一人もいません」と言わざるを得ない状況。想像するだけで、その孤独と苦しみが伝わってきます。
野球界の常識では、投球は「肘から先をしならせる」ものとされてきました。しかし、山本選手は肘を曲げずに、腕全体を大きく使って投げる。これは「アーム投げ」と分類され、故障のリスクが高いとされる投げ方でした。
球団首脳陣は心配しました。金の卵を傷つけるわけにはいかない。このフォームを止めさせなければ。その思いは正当なものでした。
しかし、山本選手には確信がありました。矢田氏から学んだBCエクササイズの感覚。筒香選手の背中を見て確信した道。そして何より、プロ1年目から悩まされていた右肘の痛みが、BCエクササイズを始めてから消えていったという事実。
野球界の常識では、「アーム投げ」とされる山本選手の新しいフォームは、受け入れられませんでした。コーチたちは、元のフォームに戻すよう指導しました。チームメイトからも疑問の目が向けられました。
理解者たちの存在
しかし、山本選手には理解者がいました。そして、その存在が山本選手を救いました。
「『3人は初めての自主トレが終わった後の2月のキャンプで、僕を否定しなかったんです。中島さんはそれまで1回もしゃべったことがなかったけど、アップをしていたら「最近どうや?」みたいな感じで来てくれて、「こういうことがあって、あまり良くないです」と言ったら、「そんなんやってみてダメだったら、やめたらいいやん。やるならやったらいいやん」って言ってくれました』」
酒井勉元投手コーチ、スカウトの山口和男氏、そして中島宏之選手。この3人が、山本選手を支えました。
特に山口氏の対応は印象的です。最初は上層部から「止めろ」と言われて山本選手のところに来ましたが、翌日、もう一度来てこう言ったといいます。「お前の話を聞いてなかったわ」と。そして、山本選手の説明を聞いた後、すぐに応援してくれた。周囲にも山本選手の考えをうまく伝えてくれた。
この3人がいなければ、山本選手は自分の道を貫けなかったかもしれません。プロ野球という上意下達の世界で、高卒2年目の選手が周囲の反対を押し切ることは、通常は不可能だからです。
しかし、山本選手は乗り越えました。そして、その1年後、セットアッパーとして5勝4敗2セーブ3ホールド、防御率2.88という好成績を残し、自分の道が正しかったことを証明したのです。
遠投の重要性
山本選手の自主トレで特に重視されているのが、遠投です。現代の野球界では、遠投の是非について様々な意見があります。「投球フォームと違う動きになるから良くない」という意見もあります。
しかし、矢田氏の考えは明確です。
矢田氏は、遠投の重要性をこう説きます。
「『僕の個人的な意見ですよ』矢田はそう断ると、『遠投をやめるなら、野球をやめろと思います』と言い切った。『遠投を毎回力任せでやらせるのは問題です。でも、物事のやり方を見つけて自分の能力を高めるには遠投は一番いいと思います。ケガもしにくい。一番ケガをしやすいのはブルペンです』」
「遠投をやめるなら、野球をやめろ」。これほど強い言葉で遠投の重要性を説く矢田氏。その理由は、遠投こそが「投げる」という動作の本質を学べる最良の方法だからです。
ブルペンでの投球練習は、確かに実戦に近い練習です。しかし、だからこそ故障のリスクも高い。全力で投げることで、肩や肘に大きな負担がかかるからです。
一方、遠投は、力任せでは遠くに投げられません。身体全体を協調させて、効率的に力を伝えなければ、ボールは飛ばない。だからこそ、「投げる」という動作の本質を学ぶのに最適なのです。
「『遠投はそれを理解する上で適した練習法だと矢田は考えている。やり投げに取り組む目的も根本は同じで、投げるという動作の本質をつかむために行う。結果、マウンドに立ったときに発揮される力が変わってくる』」
山本選手の自主トレでは、雪が降って氷点下まで冷え込んだ日でも、グラウンドで遠投を何十回と繰り返すといいます。その地道な努力が、マウンドでの150キロ超のストレートにつながっているのです。
山本由伸の「要領の良さ」と「童心」
多くのプロ野球選手が矢田氏の門をたたきます。しかし、ほとんどは数日で諦めてしまう。地道で、効果が見えにくく、ウエイトのような「わかりやすさ」がないBCエクササイズに、耐えられないのです。
では、なぜ山本選手は続けられたのか。矢田氏が見る山本選手の最大の才能は、「要領の良さ」でした。
「『要領いいです。僕と同じAB型なんですよ(笑)』『要領いいというのは裏を返すと、不安に弱いんですよ。不安に弱いから、納得できるもので安心が欲しい。自分の思う通りに事が運んだとき、自信になるじゃないですか』」
「不安に弱い」から、「安心が欲しい」。だから、納得できるトレーニングを地道に続ける。この一見矛盾するような性格が、山本選手の強さなのです。
そして、矢田氏は当初の誤解を正しました。初対面で「やります」と即答した山本選手を見て、矢田氏は「まだあどけない少年が大丈夫かな」と不安を感じていました。しかし、その「あどけなさ」の正体は、矢田氏が思っていたものとは違ったのです。
「『山本君が「やります」と言いながら、僕が「大丈夫かな?」とあどけなさを感じたのは彼の童心だと思うんです。それをあどけなさと感じたのは僕の見方が間違っていたんですね。軽いノリやし、緩いし(笑)。言葉尻を捉えるわけではないですけども、童心の中には自由な発想があったり、夢を見失わないとか、自分で創意工夫するとかが含まれるじゃないですか。彼はそういうものを持っていたので、今がある』」
「童心」。子供のような純粋な好奇心と、夢を見失わない心。それが、山本選手が地道なトレーニングを何年も続けられた理由でした。成果が見えなくても、周囲に理解されなくても、「これでボールを投げたらどうなるんだろう」というワクワク感を持ち続けられた。
この「童心」こそが、山本選手を世界の頂点へと押し上げた最大の才能なのかもしれません。
世界に類を見ないピッチャーへ
投手四冠、沢村賞、最優秀選手。山本選手は、プロ入り5年目にして日本球界の頂点に立ちました。しかし、山本選手に「達成感」はありませんでした。
なぜか。それは、山本選手の目指すゴールが、もっと遥か先にあるからです。
「『ないんですよ、それが。完成は見えてないです。完成があるかもわからない』間髪を容れずに返ってきた。おそらく本心だろう。野球選手に完成はない。『ないけど、その完成を求めていくというか。そういう感じになると思うので、この先もずっと基本的な練習からもっとやっていかないとなって思っています』」
完成は見えていない。完成があるかもわからない。しかし、その完成を求め続ける。この姿勢が、山本選手を成長させ続けています。
2021年に沢村賞を獲得した時も、2022年に2年連続で投手四冠を達成した時も、山本選手は特別な感慨はないと言い切りました。それは、山本選手の見ている景色が、日本球界のはるか先にあるからです。
矢田氏は、山本選手の将来をこう見据えています。
「『もともと見ているところには「世界で一番のピッチャー」がありました。だから、そういう基準で話が進んでいきましたよね。今の活躍にそれほど喜ばないのもそんな理由なんです。日本一やメジャーというのは、目指す過程にあるものなので』」
プロ入り1年目、18歳の時から、山本選手は「世界で一番のピッチャー」を目指していた。だから、日本での成功は通過点に過ぎない。その高い志が、山本選手を世界の舞台へと押し上げたのです。
そして2024年オフ、山本選手はロサンゼルス・ドジャースと12年契約を結び、2025年のワールドシリーズという夢の舞台に立ちました。18歳の時に見ていた景色に、少しずつ近づいているのです。
最も大切な教え:お金より時間、時間より健康
この本の中で、私が最も心を打たれたのは、山本選手の姿勢です。
「『しんどい練習は、何でやるのかという理由がないともちろんやれないと思います。僕が特に高い目標を持っていなかったとしたら、この自主トレは絶対耐えられないと思うし、まずここに来ないはずです。やっぱりこうなりたい自分"とか、目標がたくさんあって、その中には大きい目標があるからできるという部分があります』」
そして、筒香嘉智選手の存在の大きさ。
「『筒香さんが近くにいたから頑張れたっていうのも一つあります。たぶん選手たちの中で一番苦労しているのも筒香さんだし、一番練習しているのも筒香さんなので。だから筒香さんが言っていることはスッと入ってきますし、そうなりたいと思って自分も頑張れたし』」
私たちが学ぶべきこと
山本由伸選手のトレーニング哲学から、私たちが学ぶべきことは何でしょうか。
常識を疑う勇気:野球界の「常識」に囚われず、自分の身体と対話し、本質を追求すること。
シンプルさの追求:複雑なトレーニングではなく、「正しく立つ」という基本に立ち返ること。
身体知の獲得:表面的な筋肉の量ではなく、身体を効率的に使う「身体知」を重視すること。
継続の力:地道なエクササイズを、何年も、何十年も続けること。
理解者の存在:周囲の反対に遭っても、自分を信じてくれる人の存在がいかに大切か。
イチロー選手が実践する「初動負荷トレーニング」との共通点
山本由伸選手のBCエクササイズについて語る上で、欠かせないのがイチロー選手の「初動負荷トレーニング」です。実は、両者には驚くべき共通点があります。
奇跡の共通点:二人とも「ドラフト4位」
まず、驚くべき事実をお伝えしましょう。イチロー選手と山本由伸選手、この二人の世界的スーパースターには、ある共通点があります。
それは、二人とも「ドラフト4位」で指名されたということです。
イチロー選手は1991年、オリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で指名されました。そして、山本由伸選手もまた、2016年、同じオリックス(現オリックス・バファローズ)にドラフト4位で指名されています。
「それから13人後、オリックスに4位で指名されたのが都城高校の山本だった。3年後、ドラフト時の序列は覆った。「高校ビッグ4」は入団6年目の2022年シーズンを終えて、いずれも期待通りの姿を披露できていない」
ドラフト4位という評価から、世界の頂点へ。この「下剋上」を可能にしたのが、常識を覆すトレーニング哲学だったのです。
高校時点では「小粒」と評価された山本由伸選手。
「『150キロ投げられて、カットボールもスライダーもフォークもある。当時で177センチぐらいで、ちょっと小粒に見えた。伸びしろがどうかな…っていうのはありましたね』(他球団のスカウトによる評価)」
しかし、担当スカウトの山口和男氏は、山本選手の「骨格」と「練習に取り組む高い意識」を見抜いていました。
「『骨格です。177センチはプロのピッチャーの中では平均より少し低いくらいの身長だと思うけれど、骨格がしっかりしていたので、身長に関してはあまり気にしていなかったです』」
ドラフト4位という「過小評価」が、二人を奮起させたのかもしれません。常識にとらわれない独自のトレーニングを追求し、誰もが認める実績を積み重ねる。それが、イチロー選手と山本由伸選手が歩んだ道でした。
イチロー選手と小山裕史氏の出会い
イチロー選手が初動負荷トレーニングと出会ったのは、1999年のオフシーズンでした。
「一九九九年のオフに、実家を建て替えたのですが、そこに、ウェイトトレーニングのスペースが欲しくて、マシーンを置くスペースを作りました。そこにどんなマシーンを置こうかと思った時に、初動負荷トレーニングのマシーンの話を聞いていたので、置いてみようというのが最初でした」
そして、わずか3日で「やみつき」になりました。
「三日やったら、やみつきでしたね」
ウエイトトレーニングの矛盾
イチロー選手の証言は、山本由伸選手がウエイトトレーニングをしない理由と完全に一致します。
「メジャーリーグではよく重いものを挙げたりして、筋力を増強させるようなトレーニングをするので、確かに力の強さはある程度あがる。でも、関節の可動域は確実に狭くなります。そうすると、可動域が小さくなるということで、たとえば速いボールを投げたり、速くバットを振ったりするのにも、可動域の範囲が狭くなればなるほど限度が決まってきますよね」
「トレーニングとパフォーマンスというものは基本的には一致しないとやる意味がないわけですから。ですが、この初動負荷トレーニングは、それを完全に表現していると思います」
人間本来の能力を引き出す
イチロー選手の言葉は、深い洞察に満ちています。
「世の中にはさまざまなトレーニングがあり、人間の能力を伸ばそうとして、生み出されているのだと思いますが、実際には、本来人間がもっている能力を低下させているものも、中にはあるのではないか、というのが僕の見方です」
「この初動負荷トレーニングというのは、人間が本来もっている能力をさらに大きくできる可能性のある数少ないトレーニングの一つであることは間違いないと思います。僕の体験から言えば、それは絶対に言えますね」
この言葉は、山本由伸選手の「一本の青竹のようにしならせる」という投球哲学と深く共鳴します。
ヤンキースのトレーナーが見たイチローの身体
2013年、イチロー選手がニューヨーク・ヤンキースに所属していた時、ヤンキースのフィジカルトレーナーたちは、イチロー選手の身体能力に驚愕しました。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事によれば、ヤンキースのコンディショニングコーチ、デーナ・カヴァレア氏はこう証言しています。
「イチロー選手が筋肉系の故障のため故障者リストに一度も入ったことがないことに非常に興味をもちました」
「筋肉を固くし収縮させるということは、可動域を減らし、ケガのリスクを増やす可能性があるということを、若い選手に教えていかなくてはいけない」
「確かに今行っているトレーニングには矛盾が生じるんです。筋肉を固くし収縮させるということは、可動域を減らし、ケガのリスクを増やすことにつながる」
山本昌投手の証言:3日で効果を実感
同じく初動負荷トレーニングを実践している山本昌投手(当時、中日ドラゴンズ所属、50歳でも現役を続けた伝説的投手)も、イチロー選手と全く同じ体験をしています。
「三日やっただけで、キャッチボールの中で(良い)球が行くようになった、肩がよくまわる、全然違うぞ、と感じました。えっ、これ絶好調の時のキャッチボールじゃないか、しかも、たった三日間で!! 変わったことはそれしかしていなかったので、まず、そこで感激しましたね」
BCエクササイズと初動負荷トレーニングの共通哲学
山本由伸選手のBCエクササイズと、イチロー選手の初動負荷トレーニング。アプローチは異なりますが、その根底にある哲学は驚くほど似ています。
共通点:
- ウエイトトレーニングをしない:筋肉を固めるのではなく、しなやかさを追求
- 関節の可動域を広げる:より大きな力を生み出すため
- 身体本来の能力を引き出す:外からの力ではなく、内なる力を
- 故障予防:長期的なキャリアを見据えた身体づくり
- 即効性:3日で効果を実感できる
「力ではない、力」の真意
山本由伸選手が矢田氏から学んだ「力じゃない、力」。イチロー選手が小山裕史氏から学んだ「初動負荷」。
これらは表現は違えど、同じ真理を指しています。
筋肉を固めて生み出す「力」ではなく、身体全体をしなやかに使って生み出す「力」。
イチロー選手の言葉を借りれば:
「今の自分の体はもちろん、精神をも支えてくれている。初動負荷トレーニングができる環境か、どうか。この先も、もし場所が変わることがあるとしたら、まっさきにそのことを考えるでしょう」
山本由伸選手もまた、矢田修トレーナーとのトレーニングについて、同じように語っています。
「常識破り」の共通項:日本を代表する二人のアスリート
イチロー選手と山本由伸選手。世代も競技も異なる二人ですが、共通しているのは「常識を疑う勇気」です。
オリックス × ドラフト4位 × 常識破りのトレーニング
奇跡の一致: - 球団:二人ともオリックス(ブルーウェーブ/バファローズ) - ドラフト順位:二人ともドラフト4位 - トレーニング哲学:二人とも「ウエイトトレーニングをしない」 - 評価:二人とも当初は「過小評価」されていた - 結果:二人とも世界の頂点へ
イチロー選手の場合: - 1991年、オリックス・ブルーウェーブにドラフト4位 - メジャーリーグという「ウエイトトレーニング至上主義」の世界で - 初動負荷トレーニングという「異端」を貫き - 40歳を超えてもトップパフォーマンスを維持 - メジャー通算3,089安打、10年連続200安打など数々の記録
山本由伸選手の場合: - 2016年、オリックス・バファローズにドラフト4位 - 日本球界という「筋トレこそ正義」の世界で - BCエクササイズという「非常識」を実践し - わずか5年で日本球界のトップへ - 2年連続投手四冠、2年連続沢村賞
二人とも、周囲の反対に遭いながら、自分の信念を貫きました。そして、その正しさを結果で証明したのです。
オリックスという球団には、「常識にとらわれない選手を育てる土壌」があるのかもしれません。ドラフト4位という「過小評価」が、かえって選手の潜在能力を引き出したとも言えるでしょう。
おわりに:ワールドシリーズが示した道
2025年のワールドシリーズで、山本由伸選手はメジャーリーグという世界最高峰の舞台で、自身のトレーニング哲学の正しさを証明しました。
「肘を曲げない、筋トレはしない」という「常識破り」の道は、決して安易な道ではありませんでした。周囲の猛反対、理解されない孤独、そして自分自身との闘い。
しかし、山本選手は信念を貫きました。そして今、その姿は世界中の野球少年たちの希望となっています。
イチロー選手が初動負荷トレーニングで証明したこと。山本由伸選手がBCエクササイズで証明したこと。それは同じ真理です。
「人間本来の能力を引き出すトレーニングこそが、真の強さを生み出す」
「『僕は本当に負けず嫌いなので。やっぱり一番いいボールを投げたいし、自分よりすごい人がたくさんいるから、その人たちにはもちろん負けたくないし。とにかく一番いい球を投げたいです』」
一番いい球とは何か。山本選手は笑いながら答えました。
「『一番打たれない球ですね』」
このシンプルな答えに、山本由伸という投手の本質が凝縮されています。
そして、イチロー選手もまた、こう語っています。
「動物というのは自分本来の能力で一生を過ごす。でも、人間というのは、知恵があるから、自分自身の能力だけでは足りずに、何かを生み出そうとする。でも、結局は、その能力を低下させてしまっている時代だと思うんですね、今」
常識を疑い、本質を追求し、自分を信じる。
それが、イチロー選手と山本由伸選手が、世界の頂点に立った理由なのです。
参考文献
本記事の執筆にあたり、以下の書籍を参照しました。
『山本由伸 常識を変える投球術』
著者:中島大輔
出版社:株式会社新潮社(新潮新書)
発行日:2023年2月17日
書籍の概要:
プロ野球界の常識を覆し、短期間で日本球界のトップに登り詰めた投手・山本由伸の異色のキャリアと、その背景にある独自の投球術、トレーニング法、そして人間性や思考に迫る一冊。筋力トレーニングをほとんど行わず、従来の「アーム投げ」と批判されかねないフォームで、いかにして「日本のエース」と呼ばれるまでに至ったのか。その秘密を多角的な視点から詳細に解き明かします。
『希望のトレーニング 彼らは初動負荷トレーニングで何を見つけたのか』
著者:イチロー、山本昌、青木功、岩瀬仁紀 他
監修:小山裕史
出版社:講談社
発行日:2014年9月1日
書籍の概要:
イチロー、山本昌、青木功、岩瀬仁紀といった日本のトップアスリートたちが実践する「初動負荷トレーニング」に焦点を当てた一冊。監修者である小山裕史のもと、彼らがこのトレーニングを通じて得た身体的変化や精神的効果、競技パフォーマンス向上への道筋を、具体的な体験談を交えて紹介。関節の可動域拡大や持続的な効果など、その魅力と秘密に迫ります。
2025年のワールドシリーズを見て、改めて山本由伸選手の凄さを実感しました。この記事が、山本選手のトレーニング哲学を理解する一助となれば幸いです。
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(了)

