▼ 「体外受精への挑戦記」シリーズ その1:採卵周期スタート その2:採卵・受精報告 その3:胚移植
- 序章:10日間という待機期間――着床から判定まで
- 第1章:運命の日――2025年9月28日、日曜日の朝
- 第2章:「hCG 143.7」が持つ意味
- 第3章:もう一つの朗報――凍結胚という「未来への保険」
- 第4章:確率の階段――「陽性」から「出産」までの長い道のり
- 第5章:判定陽性後の新たなミッション――夫婦で取り組む生活管理
- 第6章:第二の関門――化学流産の壁を越えて
- 第7章:第三の関門――胎嚢・胎芽・心拍の兆候
- 終章:三つの関門を越えて、その先へ
序章:10日間という待機期間――着床から判定まで
2025年9月18日、木曜日の14時。都内の不妊治療専門クリニックで、桑実胚(そうじつはい)の胚移植を終えました。初回採卵で得られた9個の卵子のうち、7個が正常受精を遂げ、その中で最も発育の良かった1個が、私たちの元へ戻ってきてくれたのです。残りの6個は、胚盤胞への到達を目指して培養が継続されています。
移植が終わった瞬間から、私たちにできることは何もなくなりました。あとは、子宮の中で起きる「着床」という神秘的なプロセスを、ただ静かに待つのみです。
■ 着床とhCG――見えない場所で起きていること
胚移植から判定日までの約10日間、子宮の中では人知の及ばない、精巧な生命のプロセスが進行しています。
着床が完了すると、胚からhCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)というホルモンが分泌され始めます。このhCGこそが「妊娠している」という信号を母体に送り、妊娠の継続を支える重要な役割を担います。
市販の妊娠検査薬もこのhCGを検出しますが、体外受精ではより正確な判定のため、血液検査でhCGの濃度を定量的に測定します。これが「判定日」です。
移植から約10日後、ET10(Embryo Transfer + 10 days)と呼ばれるこの時期が、hCGが十分に上昇し、正確な判定ができる最適なタイミングとされています。
■ 判定日の変更――1日早まった運命の日
当初、判定日は9月29日と告げられていました。しかし9月26日の夕方、クリニックから「判定を1日早められますが、28日の日曜日に来院可能ですか?」と連絡が入りました。私たちはもちろん承諾しました。
そして、運命の日、2025年9月28日、日曜日が訪れました。
第1章:運命の日――2025年9月28日、日曜日の朝
9月28日の朝、予約時間に合わせてクリニックへ向かいました。日曜日のため、受付は時間外加算での対応です。
待合室には、私たちと同じように判定日を迎えたであろう何組かの夫婦が、緊張と期待が入り混じった独特の表情で静かに座っています。
やがて妻の名前が呼ばれ、採血室へと消えていきました。採血から結果が出るまでの約20分間、雑誌を手に取っても文字は頭に入らず、時計の針だけが異様にゆっくり進むように感じられました。
「終わった。あとは待つだけ」
採血を終えた妻が隣に戻り、二人で静かにその時を待ちます。
そして約15分後、再び妻の名前が呼ばれました。今度は診察室です。私たちは二人で立ち上がり、深く息を吸って、診察室のドアをノックしました。
第2章:「hCG 143.7」が持つ意味
診察室には、医師と培養士の方が待っていました。机の上には、一枚の検査結果の紙が置かれています。
医師が私たちの顔を見て、穏やかに口を開きました。
「では、検査の結果をお伝えします」
■ 「陽性です」――その言葉の重み
医師は、検査結果の紙を私たちの方へ向けました。
「hCGの値は、143.7 mIU/mLです」
一瞬の間。
「陽性ですね。おめでとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、妻が小さく息を吸う音が聞こえました。私自身も、張り詰めていた何かが胸の中でほどけていくのを感じました。
「ありがとうございます」
妻が静かに返したその声は、少しだけ震えていたように思います。これまでの全てのプロセスが、この瞬間のためにあったのだと実感しました。
■ hCG 143.7 mIU/mL――この数値が示すこと
しかし、医師はすぐに続けました。「ただし、これはあくまでスタートラインです」。その言葉に、私たちはすぐに現実へと引き戻されます。
医師によると、ET10におけるhCGの基準値は以下の通りだそうです。
- 50 mIU/mL以上:陽性(妊娠の可能性が高い)
- 100 mIU/mL以上:良好な陽性
私たちの結果、143.7 mIU/mLは、ET10の時点としては非常に良好な数値とのこと。「着床はしっかりと成立していると考えられます」という言葉に、少しだけ安堵しました。
■ 次の関門へ――hCG倍加確認の重要性
ただし、本当に重要なのは「この値が今後どのように上昇していくか」です。
hCGは妊娠初期、約1.5日〜2日で倍増する性質があり、この「倍加」が順調に進むことが、妊娠継続の重要な指標となります。
医師から、今後のスケジュールが示されました。
| 時期 | 予定日 | 検査内容 | クリアすべき関門 |
|---|---|---|---|
| ET10 | 9/28 | hCG 143.7 | 妊娠判定(陽性) ✓ |
| ET18 | 10/6 | hCG再検査 | hCG倍加確認 |
| 5週 | 10/14 | 超音波検査 | 胎嚢(たいのう)確認 |
| 6〜7週 | 10/21 | 超音波検査 | 心拍確認 |
そして、医師は最も重要な現実を告げました。
「判定陽性の段階では、残念ながら流産のリスクが約20〜30%あります。胎嚢が確認できて約15%、心拍が確認できて約5〜10%まで下がります。心拍確認までが、最初の大きな山場です」
この言葉に、私たちの表情が引き締まります。
「ただ、ET10で143という数値は良い兆候です。この数値からであれば、心拍確認までの継続率は90%以上というデータもあります。今できることは、生活を整えて、次の検査を待つことです」
私たちは頷きました。少なくとも今、最初の関門を越えたのです。
第3章:もう一つの朗報――凍結胚という「未来への保険」
判定結果の説明が終わると、今度は培養士の方から、もう一つの報告がありました。移植されなかった残り6個の胚の、その後の経過についてです。
「残りの6個の胚ですが、3個が良好な胚盤胞に到達し、無事に凍結保存できました」
この言葉に、私たちは心から安堵しました。今回の移植が万が一うまくいかなかった場合の「保険」、そして将来的に第二子を希望する場合の「選択肢」が、確保できたことを意味するからです。
▼ 私たちの培養経過まとめ - 採卵数:9個 - 正常受精:7個(受精率78%) - 移植:1個(桑実胚) - 培養継続:6個 - 胚盤胞到達:3個(到達率50%)
一般的に、受精卵が胚盤胞まで到達できる割合は30〜50%程度とされており、私たちの50%という結果は非常に良好なものでした。
■ タイムラプス培養が見せてくれた「胚の成長記録」
当クリニックでは、胚を培養器から一度も取り出すことなく、数分おきに自動撮影して成長を記録するタイムラプスインキュベーターを導入しています。
後日、私たちもその記録映像を見せてもらいました。一つの細胞が二つに、四つに、と分割していく様子は、まさに生命の神秘そのものでした。「私たちの赤ちゃんは、確かにこうして育っていたんだ」という強い実感を与えてくれます。
■ 4BB・4BC・4CC――凍結胚のグレード
凍結できた3個の胚盤胞のグレードは、以下の通りでした。
| 胚番号 | 発育段階 | グレード | 評価 |
|---|---|---|---|
| ① | Day5 | 4BB | 良好胚盤胞 |
| ② | Day6 | 4BC | 凍結可能 |
| ③ | Day6 | 4CC | 凍結可能 |
胚盤胞のグレードは、[発育段階] [胎児になる部分の質] [胎盤になる部分の質]の3つの指標で評価されます。培養士の方の説明では、「平均より良好な発育です。特に1個目の4BBは、今後の移植でも十分に期待できるグレードですよ」とのことでした。
この評価はあくまで形態学的なもので、染色体の正常性を保証するものではありません。しかし、グレードが高いほど妊娠率が高いという相関関係は示されており、私たちにとって大きな希望となりました。
■ 35歳の卵子を未来へ――凍結保存という選択
凍結保存には、初回登録料として21,000円(3割負担)の費用がかかります。しかし、もし今回うまくいかず、再び採卵からやり直す身体的・時間的・経済的コストを考えれば、これは合理的な投資です。
何より、妻は現在35歳。今回採卵できた「35歳の卵子」は、未来の私たちにとって、時間を超えた貴重な資産なのです。
第4章:確率の階段――「陽性」から「出産」までの長い道のり
判定陽性という朗報の一方で、私たちはこれからいくつもの「確率の階段」を登っていかなければならないことを知りました。
■ 第一の壁:化学流産(流産率 20〜30%)
最初の壁は、化学流産です。hCGが一時的に陽性になっても、超音波で胎嚢が確認される前に妊娠が終わってしまう状態で、陽性判定後約10〜20%で発生すると言われています。この壁を越えた証が、前述したhCGの倍加です。
■ 第二の壁:胎嚢確認(流産率 約15%)
hCGの倍加が順調なら、次は胎嚢(たいのう)確認です。子宮内に胎嚢という赤ちゃんの袋が確認できれば、「子宮内での正常な妊娠」が確定します。ここまで進むと、流産率は約15%に下がります。
■ 第三の壁:心拍確認(流産率 5〜10%)
そして、妊娠初期における最も重要な関門が心拍確認です。超音波検査で、胎芽の小さな心臓の鼓動が確認できれば、流産率は劇的に低下し、約5〜10%になります。つまり、90%以上の確率で妊娠が継続することを示します。
| 段階 | 到達時の流産率 | 妊娠継続率 | 意味 |
|---|---|---|---|
| 判定陽性 | 20〜30% | 70〜80% | 着床はしたが、化学流産のリスクあり |
| 胎嚢確認 | 約15% | 約85% | 子宮内妊娠が確定 |
| 心拍確認 | 5〜10% | 90〜95% | 妊娠継続の可能性が非常に高い |
この数字は、冷徹な現実です。しかし同時に、一つ一つの階段を登るごとに、確率が着実に味方してくれることも示しています。
医師は最後にこう付け加えました。
「妊娠初期の流産の約7割は、受精卵の染色体異常が原因です。つまり、お母さんの行動とは無関係に起こります。何かをしたから、しなかったから、というものではありません」
この言葉は、不安に苛まれる私たちにとって、何よりの救いでした。
第5章:判定陽性後の新たなミッション――夫婦で取り組む生活管理
判定陽性後、私たちには新たなミッションが課せられました。
■ ルティナス膣錠の継続
妻は、黄体ホルモンを補充するためのルティナス膣錠を、朝晩1回ずつ継続します。体外受精では、採卵時に黄体ホルモンを分泌する細胞も一緒に吸引してしまうため、薬で補充して子宮内膜の環境を維持する必要があるのです。医師からは、「心拍確認後、医師の指示があるまで自己判断で絶対に中止しないでください」と強く念を押されました。
■ 妊娠初期の生活指導
看護師さんからは、食事や睡眠、運動に関する具体的な生活指導を受けました。特に葉酸の摂取、十分な睡眠、適度な運動が重要とのことでした。
- 食事:葉酸、ビタミンD、鉄分を意識。生肉、非加熱チーズ、アルコールは避ける。
- 睡眠:22時就寝、7〜8時間の確保が理想。
- 運動:会話ができる程度のウォーキングなど。重いものは持たない。
- 入浴:40℃未満で10分以内。サウナは控える。
■ 夫に課されたミッション――「一緒に見守る」という姿勢
最後に、看護師さんが私(夫)に向けて、こうアドバイスをくれました。
「奥様が不安を口にしたとき、安易に『大丈夫だよ』と励ますのではなく、『そうだね、不安だよね。一緒に見守ろう』と寄り添ってあげてください」
この言葉は的確でした。妻が感じる「5人に1人が次に進めないかもしれない」という不安を、楽観論で否定するのではなく、共有し、一緒にその時間を過ごすこと。それこそが、夫として最も大切な役割だと気づかされました。
家事の分担や重い荷物を持つことはもちろん、毎日の服薬チェック、通院スケジュールの共有など、二人で一つひとつ確認しながら日々を過ごすことを決めました。
第6章:第二の関門――化学流産の壁を越えて
2025年10月6日(月曜日)。判定陽性から8日後、私たちはhCGの倍加を確認するため、再びクリニックを訪れました。
採血を終え、緊張して結果を待ちます。そして、医師から告げられた言葉は――
「hCGの倍加は順調です。化学流産の心配は、ほぼないと考えてよいでしょう」
この言葉に、私たちは心から安堵のため息をつきました。エストラジオール(E2)やプロゲステロン(P4)といった他のホルモン値も良好で、妊娠が順調に継続していることがデータで示されました。
第二の関門を、私たちは無事に越えることができたのです。
第7章:第三の関門――胎嚢・胎芽・心拍の兆候
2025年10月14日(火曜日)、妊娠6週1日。
この日は、超音波検査で胎嚢と胎芽を確認する、非常に重要な診察日です。
内診台に上がる妻の隣で、私も一緒にモニターを見つめました。すると、子宮の中に黒く丸い袋状の構造がはっきりと映し出されました。
「ここに、胎嚢が見えますね。大きさは23.6mm。順調です」
胎嚢(GS):23.6mm
医師の言葉に、まず一つ目のハードルを越えたことを実感します。これで、子宮内妊娠が確定しました。
さらに医師がモニターを拡大すると、胎嚢の中に、小さな白いリングと、それに隣接する線状の構造が見えました。
「ここに、胎芽が見えます。大きさは2.9mmですね」
胎芽(CRL):2.9mm
まだわずか3mmにも満たない大きさですが、これが将来の私たちの赤ちゃんになる部分です。
そして、医師が画面をじっと見つめながら、こう言いました。
「…ここに、チカチカと心拍っぽい動きが見えますね」
私たちは息を呑んで画面を凝視しました。確かに、胎芽の一部が、かすかに、しかし規則正しく動いているように見えます。まだ「ドクドク」という力強い拍動ではありませんが、生命の鼓動の兆候が、そこにはっきりとありました。
妻の手を握ると、強く握り返してくれました。
この時点で、私たちの妊娠は「化学的妊娠」から、子宮内での妊娠が証明された「臨床的妊娠」へとステップアップしました。流産率は、約15%まで下がったことになります。
私たちは、また一つ、大きな階段を上ったのです。
終章:三つの関門を越えて、その先へ
■ つわりという新たな現実
判定日から半月あまりで、私たちは三つの大きな関門を越えました。
- 判定陽性(9/28):着床の成功
- hCG倍加確認(10/6):化学流産リスクの低下
- 胎嚢・胎芽確認(10/14):臨床的妊娠の成立
しかし、安堵と同時に、つわりという新たな現実も始まりました。妻は典型的な「食べづわり」で、空腹になると強い吐き気に襲われるため、常に何かを口にしている状態です。私の役割は、買い出しと調理の完全代行へとシフトしました。
このつわりは、赤ちゃんが確かに育っている証でもあります。妻のつらさに寄り添いながら、次の関門を待ちます。
■ 経済的コストの記録
参考までに、今回の治療でかかった費用を記録しておきます。
- 判定日(9/28)の支払額:23,570円(3割負担)
- (内訳:胚凍結保存管理料 21,000円、hCG定量 390円、ルティナス膣錠14日分 1,518円 ほか)
- これまでの累計費用(保険適用・3割負担):約6〜7万円
2022年4月から体外受精が保険適用になり、経済的な負担は大幅に軽減されました。それでも、決して安い金額ではありません。このコストを受け入れ、私たちは治療を進めています。
■ この記録の意味――n=1の物語として
この一連の記録は、私たち夫婦の、たった一つの「n=1」の物語です。
統計や平均値は、客観的な指標として非常に重要です。しかし、私たちの体験は、その統計の中の「1」か「0」のどちらかにしか行き着きません。
それでも、この記録を公開する意味はあると信じています。判定日を待つ息の詰まるような時間、「陽性です」という言葉の重み、流産率という数字と向き合う不安、そして超音波で初めて我が子の兆候を見たときの感動――。
この個人的な記録が、今まさに同じ道を歩んでいる誰かの心に、少しでも寄り添うことができたなら。そして、「自分だけじゃないんだ」という小さな安心につながれば、これほど嬉しいことはありません。
次の大きな関門は、10月21日頃に予定されている、より明確な心拍確認です。そこを越えれば、流産率はさらに下がり、妊娠継続率は90%を超えます。
一日一日を、大切に過ごす。次の診察を、二人で待つ。 それが、今の私たちにできる、すべてです。
▼ 「体外受精への挑戦記」シリーズ その1:採卵周期スタート その2:採卵・受精報告 その3:胚移植
この記事は、個人の医療体験に基づく記録です。医学的な判断や治療方針については、必ず専門の医療機関にご相談ください。